コンゴウイン
金剛院
行基が建立し、織田有楽斉が再建した高野山真言宗の仏教寺院
寺院
- 仏教寺院
- エリア
- 大阪府摂津市
- 最寄り駅
- JR京都線 千里丘駅 徒歩10分
金剛院に行く前にチェック!
メッセージ
当山は味舌寺(ました)とも蜂前寺(ぶぜん)ともいわれ、行基菩薩の開創と伝えられる。『摂津郡談』には「天平勝宝年中(749~57年)行基が紫雲金光を見てこの地にきたところ、老翁に遭い、曰く、ここは大悲有縁の霊場なので、急いで寺院を創草すべしと、数々の珍菓を於いて立ち去り、その後空には光が放たれた。行基は自ら大悲の像を彫り、これを安置し、放光山味舌寺と号した。」とある。
蜂熊山蜂前寺の名は本尊薬師如来の霊験で出現した蜂に助けられたという南朝の武士の話や、村人を悩ませていた盗賊を蜂群が退治したという話が伝わり、その折戦死した蜂を埋め供養した「蜂塚」が現存する。この不思議な蜂の出現により、いつしか人々は蜂熊山蜂前寺金剛院と呼ぶようになった。
寺伝では永正年間(1504~21)三宅城(現茨木市)城主出羽守国政の外護を得たが、天正年間(1573~92)の戦火で伽藍が焼失、、寺運も衰退していたが、1663年(寛文3年)当寺の住職宥清が再興し、元文年間(1736~41年)領主織田丹後守輔宣の祈願寺となり、往古の面影を取戻したという。
蜂熊山蜂前寺の名は本尊薬師如来の霊験で出現した蜂に助けられたという南朝の武士の話や、村人を悩ませていた盗賊を蜂群が退治したという話が伝わり、その折戦死した蜂を埋め供養した「蜂塚」が現存する。この不思議な蜂の出現により、いつしか人々は蜂熊山蜂前寺金剛院と呼ぶようになった。
寺伝では永正年間(1504~21)三宅城(現茨木市)城主出羽守国政の外護を得たが、天正年間(1573~92)の戦火で伽藍が焼失、、寺運も衰退していたが、1663年(寛文3年)当寺の住職宥清が再興し、元文年間(1736~41年)領主織田丹後守輔宣の祈願寺となり、往古の面影を取戻したという。
金剛院の基本情報
スポット名 | 金剛院 |
---|---|
TEL | 06-6389-3957 |
住所 |
〒566-0001 大阪府摂津市千里丘3-10-5 |
営業日 |
|
駐車場 | あり |
備考 | 当山は味舌寺(ました)とも蜂前寺(ぶぜん)ともいわれ、行基菩薩の開創と伝えられる。『摂津郡談』には「天平勝宝年中(749~57年)行基が紫雲金光を見てこの地にきたところ、老翁に遭い、曰く、ここは大悲有縁の霊場なので、急いで寺院を創草すべしと、数々の珍菓を於いて立ち去り、その後空には光が放たれた。行基は自ら大悲の像を彫り、これを安置し、放光山味舌寺と号した。」とある。 蜂熊山蜂前寺の名は本尊薬師如来の霊験で出現した蜂に助けられたという南朝の武士の話や、村人を悩ませていた盗賊を蜂群が退治したという話が伝わり、その折戦死した蜂を埋め供養した「蜂塚」が現存する。この不思議な蜂の出現により、いつしか人々は蜂熊山蜂前寺金剛院と呼ぶようになった。 寺伝では永正年間(1504~21)三宅城(現茨木市)城主出羽守国政の外護を得たが、天正年間(1573~92)の戦火で伽藍が焼失、、寺運も衰退していたが、1663年(寛文3年)当寺の住職宥清が再興し、元文年間(1736~41年)領主織田丹後守輔宣の祈願寺となり、往古の面影を取戻したという。 |