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郡上八幡城
再建80周年 城下町郡上八幡のシンボル 郡上八幡城
文化・ミュージアム
- 博物館
- エリア
- 岐阜県郡上市
- 最寄り駅
- 東海北陸自動車道 郡上八幡インターから約5分
郡上八幡城に行く前にチェック!
メッセージ
■郡上八幡城の沿革
郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。
その後、井上氏・金森氏が相次いで入部。宝暦騒動で金森氏が改易された後、丹後国宮津藩から転封した青山幸道によって殿町に居館が築かれ、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸・松の丸に改められました。
明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされました。現在の城は、昭和8年(1933)、当時の大 垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は八幡町重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。
郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。
その後、井上氏・金森氏が相次いで入部。宝暦騒動で金森氏が改易された後、丹後国宮津藩から転封した青山幸道によって殿町に居館が築かれ、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸・松の丸に改められました。
明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされました。現在の城は、昭和8年(1933)、当時の大 垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は八幡町重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。
郡上八幡城の基本情報
スポット名 | 郡上八幡城 |
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TEL | 0575-67-1819 |
FAX | 0575-67-1771 |
住所 |
〒501-4222 岐阜県郡上市八幡町島谷789-1 |
営業日 |
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HP | http://www.gujohachiman.com/siro/ |
駐車場 | 駐車場:20台 |
お支払い方法 |
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備考 | ■郡上八幡城の沿革 郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。 その後、井上氏・金森氏が相次いで入部。宝暦騒動で金森氏が改易された後、丹後国宮津藩から転封した青山幸道によって殿町に居館が築かれ、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸・松の丸に改められました。 明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされました。現在の城は、昭和8年(1933)、当時の大 垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は八幡町重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。■伝説 ●力石(ちからいし)伝説 遠藤慶隆が八幡城復帰後に八幡城を改修した節に、城下吉田川から人夫が川原石を背負い上げたという。その中で剣村(現大和町)の通称赤髭作兵衛なる者が1m×75cm、約350kgの大石をひとりで背負い上げたという。普請奉行がその力量を深くほめたたえたとたんに彼はその場で倒れて息たえたという。普請奉行はこれを哀れんでこの石の使用を禁じたという。昭和8年に模擬城の建設にあたり放置されていたこの石を現在地(八幡城庭園内)に安置している。 ●およし物語 青山藩士羽生某の三女として生まれた羽生(後に山川) 某女の伝えとして次のような話がある。「私の母は郡上藩士青山家の分家青山某の二女で羽生家へ嫁いだものである。この母から子供時代の話に大和村牧(妙 見)の羽生家に、当時一等の美人といわれたおよしという娘がおった。この娘が選ばれて八幡城を築く際に人柱として生き埋めにされたという話が残っている。 八幡城本丸跡の石段の下でオヨシオヨシと言って手を叩くと泣くような声がするといわれ、私たちも子供の時、手を叩いたことがある」。こんな話がもとで「およし物語」が作られた。現在でも八幡城天守閣前には「およし観音」があり、およしの霊が祀られている。 |