サイゴクダイゴバンフダショフジイデラ
西国第五番札所 葛井寺(フジイデラ)
国宝千手観音、藤の花、西国第五番 葛井寺
寺院
- 仏教寺院
- エリア
- 大阪府藤井寺市
- 最寄り駅
- 藤井寺駅 徒歩3分
西国第五番札所 葛井寺(フジイデラ)に行く前にチェック!
河内の文化は、飛鳥時代より奈良時代にかけて発展し、当寺葛井寺も百済(くだら)王族「辰孫王」の子孫王氏一族の『葛井給子』が当時の天皇の仏教興降政策に協力し、国家のためと称して創建された。
永正七年(一五一〇)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による二Km四方の七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。
その聖武天皇が春日仏師(稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子)に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(七二五)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。
永正七年(一五一〇)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による二Km四方の七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。
その聖武天皇が春日仏師(稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子)に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(七二五)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。
メッセージ
草創・開基
河内文化は、飛鳥時代・奈良時代にかけて発展し、当寺葛井寺も、百済王族「辰孫王」の子孫王仁氏一族の『葛井給子』が当時の天皇の仏教興隆政策に協力し、国家のためと称して創建されました。
永正7年(1510)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による、2km四方の七堂伽藍の建立で、絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられます。古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、落慶法要には、天皇自ら行幸されたといいます。
その聖武天皇が春日仏師(稽文会・稽首勲親子)に命じて千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(725)3月18日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められました。
聖武天皇がその法要にご参賀された時に、葛井広成邸に泊られ宴をもたれたとも言われております。
河内文化は、飛鳥時代・奈良時代にかけて発展し、当寺葛井寺も、百済王族「辰孫王」の子孫王仁氏一族の『葛井給子』が当時の天皇の仏教興隆政策に協力し、国家のためと称して創建されました。
永正7年(1510)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による、2km四方の七堂伽藍の建立で、絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられます。古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、落慶法要には、天皇自ら行幸されたといいます。
その聖武天皇が春日仏師(稽文会・稽首勲親子)に命じて千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(725)3月18日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められました。
聖武天皇がその法要にご参賀された時に、葛井広成邸に泊られ宴をもたれたとも言われております。
西国第五番札所 葛井寺(フジイデラ)の基本情報
スポット名 | 西国第五番札所 葛井寺(フジイデラ) |
---|---|
TEL | 072-938-0005 |
FAX | 072-952-1111 |
住所 |
〒583-0024 大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21 |
営業日 |
|
HP | http://www.geocities.jp/saikoku33_5/ |
駐車場 | 近くにあり (大型バスも可)072-955-0578 |
お支払い方法 |
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備考 | 草創・開基 河内文化は、飛鳥時代・奈良時代にかけて発展し、当寺葛井寺も、百済王族「辰孫王」の子孫王仁氏一族の『葛井給子』が当時の天皇の仏教興隆政策に協力し、国家のためと称して創建されました。 永正7年(1510)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による、2km四方の七堂伽藍の建立で、絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられます。古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、落慶法要には、天皇自ら行幸されたといいます。 その聖武天皇が春日仏師(稽文会・稽首勲親子)に命じて千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(725)3月18日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められました。 聖武天皇がその法要にご参賀された時に、葛井広成邸に泊られ宴をもたれたとも言われております。沿革 行基菩薩によって開眼せられた後、大同元年(806)平城天皇の皇子阿保親王が勅を奉じて伽藍の修復を次いで親王子息の在原業平朝臣、真如親王等その一族によって諸堂をつぎつぎと造営されました。 永長元年(1096)大和明日香の軽里、藤井安基が当時の荒廃を歎き、伽藍の大修理に尽力せられました。この事より安基の姓をとり、藤井寺ともいいます。(地名はそのまま藤井寺と残ります) 永正7年(1510)8月8日 大地震で寺の諸堂が倒壊しましたが、そのあと再建のため諸国に勧進し、修復され現在の規模になりました。 |