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小石医院
京都市中京区の婦人科 内科 小石医院
病院・医療
- 婦人科
- 放射線科
- 内科
- エリア
- 京都府京都市中京区
- 最寄り駅
- 地下鉄烏丸線丸太町駅 4番出口
小石医院に行く前にチェック!
小石 元紹 (もとつぐ)
日本医学放射線学会専門医/日本放射線腫瘍学会認定医
1978年 ヴィアトール学園洛星高等学校卒業
1985年 京都大学医学部卒業
京都大学放射線医学教室に入局。長浜赤十字病院を経て、
1993年 京都大学大学院博士課程修了。医学博士号取得。同大医学部付属病院放射線科助手を経て、同年京都市立病院放射線科赴任。
2005年 12年間放射線治療部門を担当(がん治療患者数約2500人余)の後、退職。内科・放射線科を標榜する開業医となる。小石家九代目。
1978年 ヴィアトール学園洛星高等学校卒業
1985年 京都大学医学部卒業
京都大学放射線医学教室に入局。長浜赤十字病院を経て、
1993年 京都大学大学院博士課程修了。医学博士号取得。同大医学部付属病院放射線科助手を経て、同年京都市立病院放射線科赴任。
2005年 12年間放射線治療部門を担当(がん治療患者数約2500人余)の後、退職。内科・放射線科を標榜する開業医となる。小石家九代目。
小石 まゆみ
日本産婦人科学会専門医/母体保護法指定医
1979年 大阪府立北野高等学校卒業
1986年 近畿大学医学部卒業
神戸大学産婦人科学教室に入局。神鋼加古川病院、淀川キリスト教病院などに勤務。1990年 結婚を機に、京都に移り、出産・育児・診療の傍ら、神戸大学付属病院、伊藤病院などで研鑽を重ねた。
1997年 義母小石ナカより小石医院の開設者を受け継ぐ。
2006年現在小石医院開設者、一男三女の母。
1979年 大阪府立北野高等学校卒業
1986年 近畿大学医学部卒業
神戸大学産婦人科学教室に入局。神鋼加古川病院、淀川キリスト教病院などに勤務。1990年 結婚を機に、京都に移り、出産・育児・診療の傍ら、神戸大学付属病院、伊藤病院などで研鑽を重ねた。
1997年 義母小石ナカより小石医院の開設者を受け継ぐ。
2006年現在小石医院開設者、一男三女の母。
メッセージ
1796年(寛政8年)初代小石李伯の息子二代目元俊は、この地(京都市中京区釜座通竹屋町下る亀屋町335番地)に移り、
1799年医学塾究理堂を開設しました。以来小石家は、代々医をなりわいとし、今日に至っています。
元俊は、杉田玄白、篠崎三島、慈雲飲光らと親交を結びました。その子三代目元瑞の時代には、門弟は、遠く越後や越中からもやってきたそうです。
元瑞は、緒方洪庵、頼山陽、田能村竹田ら医者・文化人と親交がありました。
彼らの医学は、漢方に飽き足らず、関西ではいち早く蘭学を取り入れ、親試実験の気風に富んでいました。
四代目中蔵は、幕末に種痘の普及に功績がありました。究理堂は、明治の半ばまで続きました。
五代目第二郎は、明治初年長崎オランダ医学校で学び、東京帝国大学初代学長長与専斎と親交がありました。六代目暢太郎は、宇和島市民病院2代目院長を務めました。
七代目巌は、京都帝国大学で学びましたが、第2次世界大戦後に若くして病没しました。
その弟、八代目秀夫は、京都府立医大卒業後、大阪市立大学生活科学部教授、全学学生部長、同学部長、静岡県立大学食品栄養科学部教授、同学科長を歴任。その後、医史学の研究に、アミノ酸・微量元素の研究にと最晩年まで精力的に過ごしておりましたが、平成21年3月に没しました。その妻ナカが、昭和27年より医院名を「小石産婦人科・内科小石医院」とし、医業は続けられました。
平成8年にはまゆみが、開設者となり、平成17年10月に「小石医院」とあらため、現在に至っています。
1799年医学塾究理堂を開設しました。以来小石家は、代々医をなりわいとし、今日に至っています。
元俊は、杉田玄白、篠崎三島、慈雲飲光らと親交を結びました。その子三代目元瑞の時代には、門弟は、遠く越後や越中からもやってきたそうです。
元瑞は、緒方洪庵、頼山陽、田能村竹田ら医者・文化人と親交がありました。
彼らの医学は、漢方に飽き足らず、関西ではいち早く蘭学を取り入れ、親試実験の気風に富んでいました。
四代目中蔵は、幕末に種痘の普及に功績がありました。究理堂は、明治の半ばまで続きました。
五代目第二郎は、明治初年長崎オランダ医学校で学び、東京帝国大学初代学長長与専斎と親交がありました。六代目暢太郎は、宇和島市民病院2代目院長を務めました。
七代目巌は、京都帝国大学で学びましたが、第2次世界大戦後に若くして病没しました。
その弟、八代目秀夫は、京都府立医大卒業後、大阪市立大学生活科学部教授、全学学生部長、同学部長、静岡県立大学食品栄養科学部教授、同学科長を歴任。その後、医史学の研究に、アミノ酸・微量元素の研究にと最晩年まで精力的に過ごしておりましたが、平成21年3月に没しました。その妻ナカが、昭和27年より医院名を「小石産婦人科・内科小石医院」とし、医業は続けられました。
平成8年にはまゆみが、開設者となり、平成17年10月に「小石医院」とあらため、現在に至っています。
小石医院の基本情報
スポット名 | 小石医院 | ||||||||||||||||||||||||
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TEL | 075-231-3419 | ||||||||||||||||||||||||
FAX | 075-231-3429 | ||||||||||||||||||||||||
住所 |
〒604-0094 京都府京都市中京区釜座通竹屋町下ル亀屋町335 |
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営業日 |
上記診療時間は内科のみになります。診療時間は、受付開始30分後より受付終了30分後までです。 婦人科、CTに関して詳細は当院WEBにて マルチヘリカルCTは、月-土 AM 9:00-12:00、および水除くPM 1:00-4:00、5:30-7:00 随時受付可能です。 婦人科午前診は、予約診です。
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HP | http://www.koishi-i-in.com/ | ||||||||||||||||||||||||
備考 | 1796年(寛政8年)初代小石李伯の息子二代目元俊は、この地(京都市中京区釜座通竹屋町下る亀屋町335番地)に移り、 1799年医学塾究理堂を開設しました。以来小石家は、代々医をなりわいとし、今日に至っています。 元俊は、杉田玄白、篠崎三島、慈雲飲光らと親交を結びました。その子三代目元瑞の時代には、門弟は、遠く越後や越中からもやってきたそうです。 元瑞は、緒方洪庵、頼山陽、田能村竹田ら医者・文化人と親交がありました。 彼らの医学は、漢方に飽き足らず、関西ではいち早く蘭学を取り入れ、親試実験の気風に富んでいました。 四代目中蔵は、幕末に種痘の普及に功績がありました。究理堂は、明治の半ばまで続きました。 五代目第二郎は、明治初年長崎オランダ医学校で学び、東京帝国大学初代学長長与専斎と親交がありました。六代目暢太郎は、宇和島市民病院2代目院長を務めました。 七代目巌は、京都帝国大学で学びましたが、第2次世界大戦後に若くして病没しました。 その弟、八代目秀夫は、京都府立医大卒業後、大阪市立大学生活科学部教授、全学学生部長、同学部長、静岡県立大学食品栄養科学部教授、同学科長を歴任。その後、医史学の研究に、アミノ酸・微量元素の研究にと最晩年まで精力的に過ごしておりましたが、平成21年3月に没しました。その妻ナカが、昭和27年より医院名を「小石産婦人科・内科小石医院」とし、医業は続けられました。 平成8年にはまゆみが、開設者となり、平成17年10月に「小石医院」とあらため、現在に至っています。地下鉄 地下鉄丸太町駅(京都駅から10分) 烏丸線「丸太町」下車。4番出口を出て、左へ。すぐの交差点を左へ進み(丸太町通りを西へ)。二つ目の信号を左へ。150m先、左手に当院があります。 または6番出口を出て、右へ。最初の信号を右へ(夷川通を西へ)。5本目の、角に薬局のある通りを右へ。 50m先右手に当院があります。 |