トキシカンノン
時志観音
境内一万坪に威容を誇る御影石の大観音石像
寺院
- 仏教寺院
- エリア
- 愛知県知多郡美浜町
- 最寄り駅
- 名鉄 河和線 河和口駅 から徒歩10分
時志観音に行く前にチェック!
メッセージ
影現寺由来
時志観音影現寺の本堂には、ご本尊の釈迦牟尼仏坐像が安置され、観音堂には十一面観世音菩薩が祀られています。十一面観世音菩薩は、天長4年(827)三河湾に浮かぶ佐久の島の漁夫の網にかかって海中より出現されたもので島内に草庵を結び安置されました。
時移り、島内に疫病流行し悲惨目も当てられない状況の時に、島守の夢枕に観音菩薩が現れ、「時節因縁開発して今ここに安置されるも、衆生縁薄くして吾が大悲の誓願に背く、願わくは対岸の陸地に移せ」とお告げがあり、そのとき観音像より光明が発し彩雲が戸岸(時志)村にたなびいたと言われます。
その縁で、佐久の島の対岸である風光明媚の高所に、草庵を建て遷座せしめたのが始まりとされます。
永正4年(1507)聖室有賢和尚を草創開山とし、実山了証和尚を歴住開山として寺院が創立され、寺名を慈雲山影現寺としました。
その後、永正12年(1515)に海西山普門寺と改称しましたが、また元の慈雲山影現寺に戻り現在に至っております。
安産の観音さまとして信仰を集めるようになったのは、領内一円を巡察中の尾張藩主徳川義直公(1600~1650)が当寺の観音堂に休憩のみぎり、由来に感銘し堂宇を修復されました。修復するや直ちに安産祈願の使者を立てられ、無事男子の誕生をみるに至り、それ以来、寺紋に三つ葉葵が許され、代々その庇護を受けたことによります。
こうして時志観音が安産の観音さんとして、信仰を集め親しまれるようになりました。
境内は約一万坪、裏山に観音公園があり展望台があります。観音堂の南にある大観音石像(聖観音)は昭和56年に建立されたもので、本体の高さ6メートル、重さ25トンの一枚の御影石でできています。
大和信貴山の分身として毘沙門尊天が祀られ、当山の守護神となっています。弘法堂、鐘楼、地蔵堂、石の三十三観音像、仁王像をはじめ石灯籠等が置かれております。
参道入口の石の寺標・時志観音(二尺四方、高さ18尺)は、昭和初期の有名な書家大島君川氏によるものです。
時志観音影現寺の本堂には、ご本尊の釈迦牟尼仏坐像が安置され、観音堂には十一面観世音菩薩が祀られています。十一面観世音菩薩は、天長4年(827)三河湾に浮かぶ佐久の島の漁夫の網にかかって海中より出現されたもので島内に草庵を結び安置されました。
時移り、島内に疫病流行し悲惨目も当てられない状況の時に、島守の夢枕に観音菩薩が現れ、「時節因縁開発して今ここに安置されるも、衆生縁薄くして吾が大悲の誓願に背く、願わくは対岸の陸地に移せ」とお告げがあり、そのとき観音像より光明が発し彩雲が戸岸(時志)村にたなびいたと言われます。
その縁で、佐久の島の対岸である風光明媚の高所に、草庵を建て遷座せしめたのが始まりとされます。
永正4年(1507)聖室有賢和尚を草創開山とし、実山了証和尚を歴住開山として寺院が創立され、寺名を慈雲山影現寺としました。
その後、永正12年(1515)に海西山普門寺と改称しましたが、また元の慈雲山影現寺に戻り現在に至っております。
安産の観音さまとして信仰を集めるようになったのは、領内一円を巡察中の尾張藩主徳川義直公(1600~1650)が当寺の観音堂に休憩のみぎり、由来に感銘し堂宇を修復されました。修復するや直ちに安産祈願の使者を立てられ、無事男子の誕生をみるに至り、それ以来、寺紋に三つ葉葵が許され、代々その庇護を受けたことによります。
こうして時志観音が安産の観音さんとして、信仰を集め親しまれるようになりました。
境内は約一万坪、裏山に観音公園があり展望台があります。観音堂の南にある大観音石像(聖観音)は昭和56年に建立されたもので、本体の高さ6メートル、重さ25トンの一枚の御影石でできています。
大和信貴山の分身として毘沙門尊天が祀られ、当山の守護神となっています。弘法堂、鐘楼、地蔵堂、石の三十三観音像、仁王像をはじめ石灯籠等が置かれております。
参道入口の石の寺標・時志観音(二尺四方、高さ18尺)は、昭和初期の有名な書家大島君川氏によるものです。
時志観音の基本情報
スポット名 | 時志観音 |
---|---|
TEL | 0569-82-0041 |
住所 |
〒470-2402 愛知県知多郡美浜町時志南平井86番地 |
営業日 |
|
HP | http://www.asahi-net.or.jp/~gi4k-iws/sub55-8.html |
駐車場 | あり 80台 |
備考 | 影現寺由来 時志観音影現寺の本堂には、ご本尊の釈迦牟尼仏坐像が安置され、観音堂には十一面観世音菩薩が祀られています。十一面観世音菩薩は、天長4年(827)三河湾に浮かぶ佐久の島の漁夫の網にかかって海中より出現されたもので島内に草庵を結び安置されました。 時移り、島内に疫病流行し悲惨目も当てられない状況の時に、島守の夢枕に観音菩薩が現れ、「時節因縁開発して今ここに安置されるも、衆生縁薄くして吾が大悲の誓願に背く、願わくは対岸の陸地に移せ」とお告げがあり、そのとき観音像より光明が発し彩雲が戸岸(時志)村にたなびいたと言われます。 その縁で、佐久の島の対岸である風光明媚の高所に、草庵を建て遷座せしめたのが始まりとされます。 永正4年(1507)聖室有賢和尚を草創開山とし、実山了証和尚を歴住開山として寺院が創立され、寺名を慈雲山影現寺としました。 その後、永正12年(1515)に海西山普門寺と改称しましたが、また元の慈雲山影現寺に戻り現在に至っております。 安産の観音さまとして信仰を集めるようになったのは、領内一円を巡察中の尾張藩主徳川義直公(1600~1650)が当寺の観音堂に休憩のみぎり、由来に感銘し堂宇を修復されました。修復するや直ちに安産祈願の使者を立てられ、無事男子の誕生をみるに至り、それ以来、寺紋に三つ葉葵が許され、代々その庇護を受けたことによります。 こうして時志観音が安産の観音さんとして、信仰を集め親しまれるようになりました。 境内は約一万坪、裏山に観音公園があり展望台があります。観音堂の南にある大観音石像(聖観音)は昭和56年に建立されたもので、本体の高さ6メートル、重さ25トンの一枚の御影石でできています。 大和信貴山の分身として毘沙門尊天が祀られ、当山の守護神となっています。弘法堂、鐘楼、地蔵堂、石の三十三観音像、仁王像をはじめ石灯籠等が置かれております。 参道入口の石の寺標・時志観音(二尺四方、高さ18尺)は、昭和初期の有名な書家大島君川氏によるものです。 |