シンショウイン

信松院

曹洞宗 八王子の七福寺
寺院
  • 仏教寺院
エリア
東京都八王子市
最寄り駅
JR中央本線 西八王子駅 南口から徒歩15分
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メッセージ
【信松院の歴史】
武田信玄公息女

(松姫さまの生涯)
松姫さまは武田信玄の四女として永禄四年(一五六一年)九月にお生まれになりました。時あたかも父信玄は、宿敵上杉謙信と雌雄を決すべく川中島に出陣していたときであります。松姫さまは七歳のときに、織田信長の嫡子で当時十一歳の信忠と婚約いたします。当時の日本は戦国の時代で、とりわけ武田信玄の力が強大であり、新興勢力の織田信長も覇業を達成させんがために、信玄と縁故関係を結びたいと松姫さまと信忠との政略結婚を意図したのであります。元亀三年(一五七二年)、信玄は大軍を率いての宿願の上洛の軍をお越しました。その信玄の行く手に立塞がったのが徳川家康であり、浜松の北一里にある三方ヶ原で合戦が行われました。その時に織田信長は家康のために援軍を送ります。この合戦は信玄の圧勝となり、信玄は信長が家康に援軍を送ったことで、松姫さまと信忠との婚約を破棄いたします。ところが不幸にも年が明けた天正元年、信玄は旅の途中で病を発して没します。信玄の後を嗣いだ武田勝頼も時代の流れに抗し難く、天正十年三月、織田・徳川両軍の侵攻の前に天目山で討死、ここに甲斐源氏の名門武田家は滅亡するのであります。 扨てその時の松姫さまはというと、その年の正月に兄、仁科五郎盛信(信玄の五男で、信濃の名門仁科の家名を嗣ぐ)のすすめで、盛信の居城高遠城を訪れておられました。ところが織田の軍勢が攻めてくるという報せに、急ぎ甲府へ戻られます。その時松姫さまは、兄盛信の四歳になる督姫を連れ、さらに途中韮崎の新府城に立寄って勝頼の姫で四歳になる貞姫や、小山田信茂の四歳になる香貴姫も伴います。護衛の武士に守られながら一行は、父祖の地甲斐を後にして見知らぬ他国の関東を指して落ちのびられます。そして幾多の難関の末にたどり着かれたのが、武蔵国横山宿(八王子)の恩方村で、一先ず金照庵という小庵に落着かれます。やがて松姫さまは、ほど近くに在る曹洞宗の名刹心源院に随翁舜悦卜山和尚(勅賜仏国普照禅師)を訪ねられ、禅師の下で剃髪されて仏弟子となられます。そして法名を信松禅尼と称されました。御年二十二歳であります。天正十八年、松姫さまは御自身の庵を持たれるべく、当時の上野原宿で御所水の流れも清い景勝の地、御所水の里へ移り住まわれます。そして庵を結ばれた所が現在の信松院であります。この頃の八王子は北条氏照の八王子城も陥落して、関東は徳川家康が管領するところとなります。扨て、御所水に住まわれた松姫さまは、武田一族の菩提を弔われる仏道精進の毎日でありましたが、その傍らには糸を紬ぎ、絹を織られたりして織物の技を里人に伝えられます。又、近隣の子供達には手習いを教えられたりして、土地の人々から大変に慕われ尊われて平和な日々を送られます。この時に松姫さまが伝えられた織物が、後世八王子織物として発展していくこととなったのです。扨て、関東へ入った家康は居城を江戸に定め、甲信への備えの為に八王子に千人同心を配置いたします。この千人同心は、元武田家に仕えていた旧臣達です。又、関東の総代官所を八王子に置き、総代官には大久保長安が任命されました。この大久保長安もかっては武田の家臣でした。異郷で新しい生活に従事する千人同心も、又、大久保長安も八王子に旧主の姫松姫さまがおられるということで、どれだけ心強く思えたことでありましょう。家康も、信玄の姫松姫さまが八王子におられるを知って寺領を贈り、時折に消息を尋ねたりしてなぐさめられます。天下を統一した豊臣秀吉も慶長三年に病没し、天下は家康のものとなり、ここに江戸幕府三百年の礎が築かれます。時は移り元和二年四月十六日(一六一六年)戦国の時代を力強く生き抜かれた松姫さまは、温かい人々に看まもられながら、眠るが如くに他界せられたのであります。御年五十六歳でありました。法名信松院殿月峰永琴大禅定尼。奇しくもその翌十七日には徳川家康も逝去せられて、後に日光東照宮に祀られます。この東照宮の守護に就いたのが八王子千人同心であり、それが明治維新まで続いたことは、松姫さまをめぐっての奇しき因縁とも申せましょう。
(文中、松姫さま外の人物名は尊称を略させていただきました。)

信松院の基本情報

スポット名 信松院
TEL 042-622-6978
住所 〒193-0931
東京都八王子市台町3-18-28
営業日
拝観時間:
お問い合わせください。
休館日:
お問い合わせ下さい。
HP http://shinshouin.or.jp/index.html
駐車場 あり
備考 【信松院の歴史】
武田信玄公息女

(松姫さまの生涯)
松姫さまは武田信玄の四女として永禄四年(一五六一年)九月にお生まれになりました。時あたかも父信玄は、宿敵上杉謙信と雌雄を決すべく川中島に出陣していたときであります。松姫さまは七歳のときに、織田信長の嫡子で当時十一歳の信忠と婚約いたします。当時の日本は戦国の時代で、とりわけ武田信玄の力が強大であり、新興勢力の織田信長も覇業を達成させんがために、信玄と縁故関係を結びたいと松姫さまと信忠との政略結婚を意図したのであります。元亀三年(一五七二年)、信玄は大軍を率いての宿願の上洛の軍をお越しました。その信玄の行く手に立塞がったのが徳川家康であり、浜松の北一里にある三方ヶ原で合戦が行われました。その時に織田信長は家康のために援軍を送ります。この合戦は信玄の圧勝となり、信玄は信長が家康に援軍を送ったことで、松姫さまと信忠との婚約を破棄いたします。ところが不幸にも年が明けた天正元年、信玄は旅の途中で病を発して没します。信玄の後を嗣いだ武田勝頼も時代の流れに抗し難く、天正十年三月、織田・徳川両軍の侵攻の前に天目山で討死、ここに甲斐源氏の名門武田家は滅亡するのであります。 扨てその時の松姫さまはというと、その年の正月に兄、仁科五郎盛信(信玄の五男で、信濃の名門仁科の家名を嗣ぐ)のすすめで、盛信の居城高遠城を訪れておられました。ところが織田の軍勢が攻めてくるという報せに、急ぎ甲府へ戻られます。その時松姫さまは、兄盛信の四歳になる督姫を連れ、さらに途中韮崎の新府城に立寄って勝頼の姫で四歳になる貞姫や、小山田信茂の四歳になる香貴姫も伴います。護衛の武士に守られながら一行は、父祖の地甲斐を後にして見知らぬ他国の関東を指して落ちのびられます。そして幾多の難関の末にたどり着かれたのが、武蔵国横山宿(八王子)の恩方村で、一先ず金照庵という小庵に落着かれます。やがて松姫さまは、ほど近くに在る曹洞宗の名刹心源院に随翁舜悦卜山和尚(勅賜仏国普照禅師)を訪ねられ、禅師の下で剃髪されて仏弟子となられます。そして法名を信松禅尼と称されました。御年二十二歳であります。天正十八年、松姫さまは御自身の庵を持たれるべく、当時の上野原宿で御所水の流れも清い景勝の地、御所水の里へ移り住まわれます。そして庵を結ばれた所が現在の信松院であります。この頃の八王子は北条氏照の八王子城も陥落して、関東は徳川家康が管領するところとなります。扨て、御所水に住まわれた松姫さまは、武田一族の菩提を弔われる仏道精進の毎日でありましたが、その傍らには糸を紬ぎ、絹を織られたりして織物の技を里人に伝えられます。又、近隣の子供達には手習いを教えられたりして、土地の人々から大変に慕われ尊われて平和な日々を送られます。この時に松姫さまが伝えられた織物が、後世八王子織物として発展していくこととなったのです。扨て、関東へ入った家康は居城を江戸に定め、甲信への備えの為に八王子に千人同心を配置いたします。この千人同心は、元武田家に仕えていた旧臣達です。又、関東の総代官所を八王子に置き、総代官には大久保長安が任命されました。この大久保長安もかっては武田の家臣でした。異郷で新しい生活に従事する千人同心も、又、大久保長安も八王子に旧主の姫松姫さまがおられるということで、どれだけ心強く思えたことでありましょう。家康も、信玄の姫松姫さまが八王子におられるを知って寺領を贈り、時折に消息を尋ねたりしてなぐさめられます。天下を統一した豊臣秀吉も慶長三年に病没し、天下は家康のものとなり、ここに江戸幕府三百年の礎が築かれます。時は移り元和二年四月十六日(一六一六年)戦国の時代を力強く生き抜かれた松姫さまは、温かい人々に看まもられながら、眠るが如くに他界せられたのであります。御年五十六歳でありました。法名信松院殿月峰永琴大禅定尼。奇しくもその翌十七日には徳川家康も逝去せられて、後に日光東照宮に祀られます。この東照宮の守護に就いたのが八王子千人同心であり、それが明治維新まで続いたことは、松姫さまをめぐっての奇しき因縁とも申せましょう。
(文中、松姫さま外の人物名は尊称を略させていただきました。)
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