キビツジンジャ
吉備津神社
吉備津神社は岡山県岡山市にあり、大吉備津彦大神を主祭神とする山陽道屈指の大社です。
神社
- 神社
- エリア
- 岡山県岡山市北区
- 最寄り駅
- 岡山空港から車で約23分
~吉備津神社とは~
当社、吉備津神社は岡山県岡山市にあり、大吉備津彦大神を主祭神とする山陽道屈指の大社です。
大吉備津彦大神は、記紀によれば、崇神朝四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られたとされています。古来より、吉備国開拓の大祖神として尊崇され、吾国唯一の様式にして日本建築の傑作「吉備津造り(比翼入母屋造)」の勇壮な社殿、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られています。
大吉備津彦大神は、記紀によれば、崇神朝四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られたとされています。古来より、吉備国開拓の大祖神として尊崇され、吾国唯一の様式にして日本建築の傑作「吉備津造り(比翼入母屋造)」の勇壮な社殿、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られています。
縁起■
当社は大吉備津彦命を主神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命と、その子吉備武彦命(キビタケヒコノミコト)等、一族の神々を合わせ祀っております。大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子にあたられ、もとのお名前を五十狭芹彦命(イサセリヒコミコト)と申し上げ、武勇の誉れ高いお方であられます。
一説によりますと、第十代崇神天皇の御代、災害もなくなり天下もようやく治まってまいりましたが、都から遠く離れた地方には未だ朝廷に従わない者が多数おりました。そこで天皇即位十年に皇族の中から四人の将軍を選び、印綬を授け各地方に派遣し討伐することとなりました。すなはち、北陸道には大彦命(オオヒコノミコト)、東海道には武渟別命(タケヌナワケノミコト)、丹波には丹波道主命(タニハニミチヌシノミコト)、そして西道のちの山陽道には大吉備津彦命が派遣されることとなりました。 吉備津彦命と異母弟若日子建吉備津彦命は兵を率いて山陽道を進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道口」と定められ加古川の畔で神祭を行っております。
その場所と思われるところに日岡神社が現存し天伊佐々比古命がお祀りされています。 こうして命は吉備国に入り、人々を苦しめ鬼と恐れられていた温羅一族を苦戦の末退治することができ、この地方に平和と秩序をもたらしたと云われております。
当社がいつごろ誰によって造営されたのかについては、文献もなく確かなことはわかりませんが、ただ言い伝えによると、一説に吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命(カヤオミナルミ)という人が祖神として吉備津彦命をお祀りしたのが起源であると云われております。
また一説に若建日子吉備津彦命から三代目の孫と云われる稲速別命(イナハヤワケ)・御友別命・鴨別命(カモノワケ)が始めて社殿を造りお祀りしたとも云われます。さらに一説に仁徳天皇が吉備海部直の娘である黒媛を慕ってこの地に行幸したときに、吉備津彦の功績を聞き称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とも伝わっております。
一説によりますと、第十代崇神天皇の御代、災害もなくなり天下もようやく治まってまいりましたが、都から遠く離れた地方には未だ朝廷に従わない者が多数おりました。そこで天皇即位十年に皇族の中から四人の将軍を選び、印綬を授け各地方に派遣し討伐することとなりました。すなはち、北陸道には大彦命(オオヒコノミコト)、東海道には武渟別命(タケヌナワケノミコト)、丹波には丹波道主命(タニハニミチヌシノミコト)、そして西道のちの山陽道には大吉備津彦命が派遣されることとなりました。 吉備津彦命と異母弟若日子建吉備津彦命は兵を率いて山陽道を進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道口」と定められ加古川の畔で神祭を行っております。
その場所と思われるところに日岡神社が現存し天伊佐々比古命がお祀りされています。 こうして命は吉備国に入り、人々を苦しめ鬼と恐れられていた温羅一族を苦戦の末退治することができ、この地方に平和と秩序をもたらしたと云われております。
当社がいつごろ誰によって造営されたのかについては、文献もなく確かなことはわかりませんが、ただ言い伝えによると、一説に吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命(カヤオミナルミ)という人が祖神として吉備津彦命をお祀りしたのが起源であると云われております。
また一説に若建日子吉備津彦命から三代目の孫と云われる稲速別命(イナハヤワケ)・御友別命・鴨別命(カモノワケ)が始めて社殿を造りお祀りしたとも云われます。さらに一説に仁徳天皇が吉備海部直の娘である黒媛を慕ってこの地に行幸したときに、吉備津彦の功績を聞き称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とも伝わっております。
鬼退治神話■
当社には、あの桃太郎のお話のもととも云われる温羅退治のお話しが伝わっています。
それは、諸説ありますが大要は次のようなお話です。
『むかしむかし異国よりこの吉備国に空をとんでやってきた者がおりました。その者は一説には百済の皇子で名を温羅(うら)といい、目は狼のように爛々と 輝き、髪は赤々と燃えるが如く、そして身長は一丈四尺にもおよび腕力は人並みはずれて強く、性格は荒々しく凶悪そのものでありました。温羅は新山に城を築 き都へ向かう船や婦女子を襲っていたので、人々は温羅の居城を鬼の城と呼び恐れおののいていました。都の朝廷もこれを憂い名のある武将を遣わして討伐しよ うとしましたが、すばしこく変幻自在の温羅を誰も討伐できず都に逃げ帰る有り様でありました。そこで武勇の誉れ高い五十狭芹彦命が派遣されることになりま した。大軍を率いて吉備国に下って来られた命は吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築き戦いの準備をしました。
ついに命は温羅と戦うことになりましたが、不思議なことに命が射た矢と温羅が投げた石が悉く空中で衝突し海に落ちてしまい苦戦を強いられることとなりま す。そこで命は考えをめぐらし一度に二矢を射ることができる強弓を準備させ、一度に二つの矢を射ることにしました。すると、一つの矢はいつものように海に 落ちてしまいますが、もう一つの矢はみごとに温羅の左目に突き刺さりました。温羅は驚愕し雉に姿を変え山中に逃げますが、命はたちまち鷹となって追いかけ ます。温羅は命に捕まりそうになると、今度は鯉に姿を変え、自分の左目から迸った血で川となった血吸川に逃げ込みます。命は鵜に変化し血吸川を逃げる温羅 を見つけ噛み上げついに捕まえることに成功します。捕まった温羅は命に降参して、人民から呼ばれていた吉備冠者を命に献上したので、これ以降命は吉備津彦 命と呼ばれることとなりました。』
当社より北西の方角に鬼の城と呼ばれる朝鮮式の山城の石積が存在し現在も調査発掘がされています。また、命が射た矢と温羅が投げた岩が空中で衝突し落ち た処には矢喰宮があり、その脇には血吸川が流れ、血吸川を鯉となって逃げる温羅を噛み上げたところには鯉喰神社が現存します。他にも楯突遺跡、阿曽の郷、 鬼の岩屋など、この鬼退治の神話に所縁ある遺跡や神社が数多くあり訪れる人たちのロマンと冒険心を掻き立てております。
それは、諸説ありますが大要は次のようなお話です。
『むかしむかし異国よりこの吉備国に空をとんでやってきた者がおりました。その者は一説には百済の皇子で名を温羅(うら)といい、目は狼のように爛々と 輝き、髪は赤々と燃えるが如く、そして身長は一丈四尺にもおよび腕力は人並みはずれて強く、性格は荒々しく凶悪そのものでありました。温羅は新山に城を築 き都へ向かう船や婦女子を襲っていたので、人々は温羅の居城を鬼の城と呼び恐れおののいていました。都の朝廷もこれを憂い名のある武将を遣わして討伐しよ うとしましたが、すばしこく変幻自在の温羅を誰も討伐できず都に逃げ帰る有り様でありました。そこで武勇の誉れ高い五十狭芹彦命が派遣されることになりま した。大軍を率いて吉備国に下って来られた命は吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築き戦いの準備をしました。
ついに命は温羅と戦うことになりましたが、不思議なことに命が射た矢と温羅が投げた石が悉く空中で衝突し海に落ちてしまい苦戦を強いられることとなりま す。そこで命は考えをめぐらし一度に二矢を射ることができる強弓を準備させ、一度に二つの矢を射ることにしました。すると、一つの矢はいつものように海に 落ちてしまいますが、もう一つの矢はみごとに温羅の左目に突き刺さりました。温羅は驚愕し雉に姿を変え山中に逃げますが、命はたちまち鷹となって追いかけ ます。温羅は命に捕まりそうになると、今度は鯉に姿を変え、自分の左目から迸った血で川となった血吸川に逃げ込みます。命は鵜に変化し血吸川を逃げる温羅 を見つけ噛み上げついに捕まえることに成功します。捕まった温羅は命に降参して、人民から呼ばれていた吉備冠者を命に献上したので、これ以降命は吉備津彦 命と呼ばれることとなりました。』
当社より北西の方角に鬼の城と呼ばれる朝鮮式の山城の石積が存在し現在も調査発掘がされています。また、命が射た矢と温羅が投げた岩が空中で衝突し落ち た処には矢喰宮があり、その脇には血吸川が流れ、血吸川を鯉となって逃げる温羅を噛み上げたところには鯉喰神社が現存します。他にも楯突遺跡、阿曽の郷、 鬼の岩屋など、この鬼退治の神話に所縁ある遺跡や神社が数多くあり訪れる人たちのロマンと冒険心を掻き立てております。
国宝本殿拝殿■
本殿の大きさは桁行き48尺3寸(約14.6m)、梁間58尺3寸6分(約17.7m)、棟高(土台下端から箱棟上端まで)39尺6寸(約12m)、建坪 78坪3強(約255m²)の大建築であり、京都の八坂神社につぐ大きさがあり、また出雲大社の約2倍以上の広さがある。
白漆喰で築いた亀腹の上に北面して立つ一重の神殿で、軸部の柱は径1尺6寸(約48cm)の円柱で高さ20尺(約6m)のアスナロウと云われる材を内外あ わせて68本使っている。入母屋の千鳥破風を前後に二つ並べ同じ高さの棟で結び桧皮で葺き、ひとつの大きな屋根にまとめた大胆極まる構造で、上から見ると 棟はカタカナの「エ」の字型になっている。建築学上では『比翼入母屋造』と云い、全国で唯一の様式であるので、単に『吉備津造り』とも云う。
東大寺再建に尽力した僧重源が大陸よりもたらした大仏様の『挿肘木』といわれる組物により、この本殿のきわめて深い軒や回縁を支柱もなしに一軒でつくり、実に美しく調和した建築美を生み出している。
本殿・拝殿は過去2回の火事によって焼失したが、現在の本殿・拝殿は今から約600年前の室町時代、将軍足利義満の時代に約25年の歳月をかけて応永32年(1425)に再建された。それ以来、解体修理もなくその雄大な姿を現代に伝えている。
本殿内部は、外陣、朱の壇、中陣、内陣、内々陣と別れており、中央にいくにしたがって、床も天井も高くなり天井の模様も異なる。外陣と中陣の大部分は天井を張らない化粧屋根裏であり、中陣の前面一間通と朱の壇は格縁天井を張り、内々陣は舟底天井である。 また朱塗り、丹、胡粉(ごふん)などで美しく塗装し、仏教建築の影響もみられる。現在外部は素木になっているが当初は丹塗りが施してあったと思われる。
拝殿は本殿の正面に接続して突き出した建物で、本殿と同時期の再建で柱間は正面1間(26尺6寸4分)、側面3間(32尺2寸8分)、棟高39尺(約 12m)、建坪23坪強(約78.5m²)の大きさである。柱は本殿と同じ太さの円柱を用い、挿肘木による大仏様の組み物をそなえ、外観は重層内部は屋根裏 まで見とおした構造で正面は切り妻となり屋根を桧皮で葺いている。前面と両側面には一間通の裳階(もこし)をつけ、その屋根は本丸瓦葺になっている。日本 全国に例のない独特の形式である。
明治43年の遷宮のとき、この拝殿だけは解体修理が行われ柱の一部が取り替えられた。
本殿との境に七級の木階を設けて連絡しており、本殿と拝殿はもともと一体のものとして設計された建物で、国宝目録にも『吉備津神社本殿・拝殿』として一体に数えられている。
白漆喰で築いた亀腹の上に北面して立つ一重の神殿で、軸部の柱は径1尺6寸(約48cm)の円柱で高さ20尺(約6m)のアスナロウと云われる材を内外あ わせて68本使っている。入母屋の千鳥破風を前後に二つ並べ同じ高さの棟で結び桧皮で葺き、ひとつの大きな屋根にまとめた大胆極まる構造で、上から見ると 棟はカタカナの「エ」の字型になっている。建築学上では『比翼入母屋造』と云い、全国で唯一の様式であるので、単に『吉備津造り』とも云う。
東大寺再建に尽力した僧重源が大陸よりもたらした大仏様の『挿肘木』といわれる組物により、この本殿のきわめて深い軒や回縁を支柱もなしに一軒でつくり、実に美しく調和した建築美を生み出している。
本殿・拝殿は過去2回の火事によって焼失したが、現在の本殿・拝殿は今から約600年前の室町時代、将軍足利義満の時代に約25年の歳月をかけて応永32年(1425)に再建された。それ以来、解体修理もなくその雄大な姿を現代に伝えている。
本殿内部は、外陣、朱の壇、中陣、内陣、内々陣と別れており、中央にいくにしたがって、床も天井も高くなり天井の模様も異なる。外陣と中陣の大部分は天井を張らない化粧屋根裏であり、中陣の前面一間通と朱の壇は格縁天井を張り、内々陣は舟底天井である。 また朱塗り、丹、胡粉(ごふん)などで美しく塗装し、仏教建築の影響もみられる。現在外部は素木になっているが当初は丹塗りが施してあったと思われる。
拝殿は本殿の正面に接続して突き出した建物で、本殿と同時期の再建で柱間は正面1間(26尺6寸4分)、側面3間(32尺2寸8分)、棟高39尺(約 12m)、建坪23坪強(約78.5m²)の大きさである。柱は本殿と同じ太さの円柱を用い、挿肘木による大仏様の組み物をそなえ、外観は重層内部は屋根裏 まで見とおした構造で正面は切り妻となり屋根を桧皮で葺いている。前面と両側面には一間通の裳階(もこし)をつけ、その屋根は本丸瓦葺になっている。日本 全国に例のない独特の形式である。
明治43年の遷宮のとき、この拝殿だけは解体修理が行われ柱の一部が取り替えられた。
本殿との境に七級の木階を設けて連絡しており、本殿と拝殿はもともと一体のものとして設計された建物で、国宝目録にも『吉備津神社本殿・拝殿』として一体に数えられている。
吉備津神社の基本情報
スポット名 | 吉備津神社 |
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TEL | 086-287-4111 |
FAX | 086-287-7644 |
住所 |
〒701-1341 岡山県岡山市北区吉備津931 |
営業日 |
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