アサヒキンゾクコウギョウカブシキガイシャ ギフアンパチコウジョウ
旭金属工業株式会社 岐阜安八工場
技術力と提案力で世の中に貢献する旭金属工業(株。航空・宇宙・原子力機器の製造
企業・事務所
- 金属
- エリア
- 岐阜県安八郡安八町
- 最寄り駅
- JR東海道新幹線 岐阜羽島駅 から車で11分
~事業内容~
特殊工程を中心として
(1) 航空・宇宙機器部品の製作
(2) 航空・宇宙エンジン部品の製作
(3) 航空・宇宙機器部品の加工用冶具・組立冶具の製作
(4) 原子力機器部品・加速器部品の製作
(5) その他大物部品の陽極処理
(1) 航空・宇宙機器部品の製作
(2) 航空・宇宙エンジン部品の製作
(3) 航空・宇宙機器部品の加工用冶具・組立冶具の製作
(4) 原子力機器部品・加速器部品の製作
(5) その他大物部品の陽極処理
~岐阜安八300年工場~
なぜ「300年工場」なのか
--300年間利用できる環境に配慮した工場--
300年工場とは、環境に配慮し建屋の耐用年数を300年に設定しメンテナンス計画に基づき、300年間生産維持ができる構造となっております。その間、設備の入れ替えやレイアウトが自由にできるように工場内は無柱となっております。
部品後工程の宿命といえる受注量や納期のバラツキも、最大バラツキに対応できるよう、『大型量産化』の設備としました。航空機部品業界のさらなる国際化を想定し、短納期・低コストを実現するため、ひとつの工場で素材投入から機械加工・ザイグロ・アノダイズ・塗装の工程を結合しNPSを採用し工程短縮をしています。
工場外壁面には、フリークライミングウォール「安八スカイウォール」を設置し、社員の厚生施設にとどまらず、社会貢献の一環として広く一般に開放しています。
--300年間利用できる環境に配慮した工場--
300年工場とは、環境に配慮し建屋の耐用年数を300年に設定しメンテナンス計画に基づき、300年間生産維持ができる構造となっております。その間、設備の入れ替えやレイアウトが自由にできるように工場内は無柱となっております。
部品後工程の宿命といえる受注量や納期のバラツキも、最大バラツキに対応できるよう、『大型量産化』の設備としました。航空機部品業界のさらなる国際化を想定し、短納期・低コストを実現するため、ひとつの工場で素材投入から機械加工・ザイグロ・アノダイズ・塗装の工程を結合しNPSを採用し工程短縮をしています。
工場外壁面には、フリークライミングウォール「安八スカイウォール」を設置し、社員の厚生施設にとどまらず、社会貢献の一環として広く一般に開放しています。
~創業期~ 1948年-1963年
●創業の背景
前社長山中泰造(故人)が、江戸時代より200有余年ののれんを誇る醤油屋“糀屋小兵衛”のもとに養子として迎えられたのは、昭和21年、泰造29才のときでした。屋号は「糀屋」と称し、京都ではもちろん、おそらく日本でも最古の創業ではないかといわれるほどの老舗でした。
しかし、当時の日本は、最も暗い時代の真ただ中にあり、戦時下、非常時の名のもとに国民は窮乏生活を強いられ、日本の産業は息も耐えだえに喘いでいる状態でした。醤油屋稼業も例外ではありません。統制経済下の管理のもとに、材料不足や電力不足に悩まされ、満足な経営は望むべくもなく、なんとか細々と稼業を継続しているというのが実情でした。「糀屋」も京都の醤油製造業者全部と統合され、「京都味噌醤油株式会社」という名称の統制会社になっていました。
そして昭和20年8月、敗戦という最悪の形で日本は終戦を迎えたのです。日本経済は壊滅状態で、人々は日々の糧にもこと欠くありさまでした。しかし、人々は西の空にわずかにのぞく青空を見出したかのように、明日への希望と活力を少しづつとりもどしはじめたのです。山中泰造もそんな思いを抱く一人でした。
●醤油屋からメッキ屋へ
終戦から2~3年たって、世の中も少し落ち着きを取り戻しました。当時、山中(旧姓細辻)泰造の実弟である細辻文次は、学徒召集を終え、母校である京都大学工学部冶金学教室で研究の途にありました。新しい解放の時代を迎えた大学の研究室には、アメリカやヨーロッパから洪水のように斬新な技術情報がもたらされ、そのひとつにアメリカの電解研磨技術がありました。バフで磨いてめっきをかける手間ひまかけた従来の日本の鍍金技法と異り、アメリカでは電解溶液に漬けるだけで輝かしいめっきができるという情報は、細辻文次を驚かせ「これを兄貴のところで企業化してはどうだろうか」という提案になったのです。
その頃、山中の醤油業は、統制会社となって営業を続けていましたが、たまたま大豆の割砕工場が休業のまま放置され、またさいわいなことに、当時は貴重な動力源であった電力の割当が、大豆割砕用の22kW分、そっくりそのまま余っていました。「京大からの技術援助も受けられる。職人仕事のめっき屋ではなく、企業としてやってみよう。そして新しい日本の産業に貢献しよう」と山中泰造は決心しました。
昭和23年6月、これが山中泰造と細辻文次以下8人の男たちの船出でした。京都は下立売智恵光院に旭金属工業 (株)が産声をあげたのです。
●ないないづくしの操業
資本金50万円、従業員8名、醤油工場の隣で電気めっき業の看板をあげた旭金属工業ですが、事態はそんなに簡単ではありませんでした。戦後復興の掛け声ばかりは勇ましいものがありましたが、環境はまだまだ劣悪で材料、薬品、電力、すべてが不足していました。いってみれば、「ないないづくし」の出発であったのです。時代はまだ統制下にあり、なにをするにしても厳しい壁が立ちはだかっていました。しかし、新しい仕事に活路を見出そうとする男たちは頑張りました。新しい仕事に立ち向う情熱にかり立てられた男たちは、持ち前の力を発揮して溝を掘り、タンクを据え付け、汗まみれ泥まみれになって工場を作り、手袋、ゴム長、前掛けなどの日常作業具もすべて手づくりで調達、今ではとても考えられませんが、なんと、めっきに必要な薬品類まで自分達で調合するという離れ技までもやってのけたのです。
そんな創業の男たちの必死の努力にもかかわらず、当初の電解研磨はことごとく失敗。大学の研究室では成功したものが、1回目はともかく2回目になるとどうしてもうまいくいかない状況でした。落胆しながらも改良と工夫を重ねますが、結果は同じです。後で判明したのですが、当時の鉄はくず鉄などの不純物の多い原材料からできたものばかりで、物質の純度が低く、電解液が正しく作用しなかったのです。加えて、電力事情は最悪で、停電に次ぐ停電。そのつど作業はストップし、不良品が山積します。劣悪な環境と失敗の中でも、旺盛な勤勉意欲と創意工夫によって、旭金属工業の看板を守りつづけました。経営的にもけっして楽ではありませんでしたが、みんな必死で歯をくいしばり頑張りとおしたのです。この頃に培われた仕事に対する勤勉と創意工夫への積極的な取り組みが、「技術の旭金属」と高く評価される今日の礎となったと強く自負しているのです。
●朝鮮戦争特需
昭和25年、日本の隣国朝鮮で起った戦争は、経済復興に喘ぐ日本の繊維、食品、機械、鉄鋼などあらゆる部門に空前の好景気をもたらしました。いわゆる神武景気と呼ばれるものです。この波はめっき業界にも波及し、旭金属はにわかに忙しくなりました。生産はアップし、業績も向上しました。なかでも旭金属にとって画期的なことは、京都の精密科学機械メーカー(株) 島津製作所との取引がはじまったことです。
当時、島津製作所では、水晶発信の水晶片に付けるめっきに頭を痛めているということを社長が同級生懇談会の席で聞き出し、「それならば」とこの仕事に挑戦したのが端緒です。さっそく京大と協力し、純水によるめっきで見事に解決。晴れて島津製作所のお出入り(当時の納入業者の呼び方)となれたのです。
以来、今日に至るまで、島津製作所の認定工場としてさまざまな表面処理を受注、旭金属工業自体も技術的に大きく成長できたのです。
また、昭和31年には、鍍金加工の前後工程である機械加工や組立も、表面処理と同時に島津製作所から受注できるようになり、空いていた醤油蔵を改造し第二工場を建設、精密理化学機械の組立加工部門にも進出しました。この組立部門が発展し、昭和39年に旭金属精機 (株)として分離独立することになるのです。資本金を200万円に増資、従業員も36名に増員。旭金属工業が大きく前進する飛躍の時代であったのです。
●鉛メッキに成功
昭和33年頃のことです。関門トンネル内に設置する蛍光灯の笠の鉛めっきを、星和電機 (株)から受注したことがあります。国鉄から受注したのは東芝、松下、それに星和電機の3社。海水による腐蝕防止のための国鉄仕様が鉛めっきだったのです。当時の鉛めっきといえば鉛液にそのままドボンと付けて終りという、主に船関係の素材に使われた簡単なめっきが大半で、電気鉛めっきができる工場はほとんどありませんでした。わが社は以前に星和電機からの仕事で、旭化成 (株)延岡工場の蛍光灯で経験済みでした。別にあわてることなく星和電機の受注分は処理しましたが、困られたのは松下電器さん。東芝は東京で処理済み。松下さんだけが電気鉛めっきの外注先をもたず、納期は迫るし大困惑された様子。「いくら設備に費用がかかってもよいから」とのたっての頼みを引き受け、ベルトーロ(直流発電機)も増設し、昼夜大車輪。門前からトラックが直接現場へ向うという綱渡りでした。大いに感謝されたものです。
*- 創業時苦労アラカルト -
どんな仕事でも創業時に苦労はつきもの。旭金属工業でも同じことです。もともと醤油屋からの創業ですから、いろいろな部署で醤油屋の道具や知恵が使われました。たとえば、醤油樽の風呂などもそのひとつ。醤油圧搾槽がめっき槽にも使われ、大いに活躍したものですが、この醤油樽の風呂は傑作です。1日の労働を終えての醤油樽風呂は、さぞかし心地よいものであったでしょう。「え!とんでもない、臭くて寒くて…」ですって。「でも懐しい思い出だ」と古参社員は語ります。「残業の深夜、社長の奥さんから差し入れられる握り飯と味噌汁はほんとうにうまかったなあ…」とこれまた感慨ひとしおの様子。
前社長山中泰造(故人)が、江戸時代より200有余年ののれんを誇る醤油屋“糀屋小兵衛”のもとに養子として迎えられたのは、昭和21年、泰造29才のときでした。屋号は「糀屋」と称し、京都ではもちろん、おそらく日本でも最古の創業ではないかといわれるほどの老舗でした。
しかし、当時の日本は、最も暗い時代の真ただ中にあり、戦時下、非常時の名のもとに国民は窮乏生活を強いられ、日本の産業は息も耐えだえに喘いでいる状態でした。醤油屋稼業も例外ではありません。統制経済下の管理のもとに、材料不足や電力不足に悩まされ、満足な経営は望むべくもなく、なんとか細々と稼業を継続しているというのが実情でした。「糀屋」も京都の醤油製造業者全部と統合され、「京都味噌醤油株式会社」という名称の統制会社になっていました。
そして昭和20年8月、敗戦という最悪の形で日本は終戦を迎えたのです。日本経済は壊滅状態で、人々は日々の糧にもこと欠くありさまでした。しかし、人々は西の空にわずかにのぞく青空を見出したかのように、明日への希望と活力を少しづつとりもどしはじめたのです。山中泰造もそんな思いを抱く一人でした。
●醤油屋からメッキ屋へ
終戦から2~3年たって、世の中も少し落ち着きを取り戻しました。当時、山中(旧姓細辻)泰造の実弟である細辻文次は、学徒召集を終え、母校である京都大学工学部冶金学教室で研究の途にありました。新しい解放の時代を迎えた大学の研究室には、アメリカやヨーロッパから洪水のように斬新な技術情報がもたらされ、そのひとつにアメリカの電解研磨技術がありました。バフで磨いてめっきをかける手間ひまかけた従来の日本の鍍金技法と異り、アメリカでは電解溶液に漬けるだけで輝かしいめっきができるという情報は、細辻文次を驚かせ「これを兄貴のところで企業化してはどうだろうか」という提案になったのです。
その頃、山中の醤油業は、統制会社となって営業を続けていましたが、たまたま大豆の割砕工場が休業のまま放置され、またさいわいなことに、当時は貴重な動力源であった電力の割当が、大豆割砕用の22kW分、そっくりそのまま余っていました。「京大からの技術援助も受けられる。職人仕事のめっき屋ではなく、企業としてやってみよう。そして新しい日本の産業に貢献しよう」と山中泰造は決心しました。
昭和23年6月、これが山中泰造と細辻文次以下8人の男たちの船出でした。京都は下立売智恵光院に旭金属工業 (株)が産声をあげたのです。
●ないないづくしの操業
資本金50万円、従業員8名、醤油工場の隣で電気めっき業の看板をあげた旭金属工業ですが、事態はそんなに簡単ではありませんでした。戦後復興の掛け声ばかりは勇ましいものがありましたが、環境はまだまだ劣悪で材料、薬品、電力、すべてが不足していました。いってみれば、「ないないづくし」の出発であったのです。時代はまだ統制下にあり、なにをするにしても厳しい壁が立ちはだかっていました。しかし、新しい仕事に活路を見出そうとする男たちは頑張りました。新しい仕事に立ち向う情熱にかり立てられた男たちは、持ち前の力を発揮して溝を掘り、タンクを据え付け、汗まみれ泥まみれになって工場を作り、手袋、ゴム長、前掛けなどの日常作業具もすべて手づくりで調達、今ではとても考えられませんが、なんと、めっきに必要な薬品類まで自分達で調合するという離れ技までもやってのけたのです。
そんな創業の男たちの必死の努力にもかかわらず、当初の電解研磨はことごとく失敗。大学の研究室では成功したものが、1回目はともかく2回目になるとどうしてもうまいくいかない状況でした。落胆しながらも改良と工夫を重ねますが、結果は同じです。後で判明したのですが、当時の鉄はくず鉄などの不純物の多い原材料からできたものばかりで、物質の純度が低く、電解液が正しく作用しなかったのです。加えて、電力事情は最悪で、停電に次ぐ停電。そのつど作業はストップし、不良品が山積します。劣悪な環境と失敗の中でも、旺盛な勤勉意欲と創意工夫によって、旭金属工業の看板を守りつづけました。経営的にもけっして楽ではありませんでしたが、みんな必死で歯をくいしばり頑張りとおしたのです。この頃に培われた仕事に対する勤勉と創意工夫への積極的な取り組みが、「技術の旭金属」と高く評価される今日の礎となったと強く自負しているのです。
●朝鮮戦争特需
昭和25年、日本の隣国朝鮮で起った戦争は、経済復興に喘ぐ日本の繊維、食品、機械、鉄鋼などあらゆる部門に空前の好景気をもたらしました。いわゆる神武景気と呼ばれるものです。この波はめっき業界にも波及し、旭金属はにわかに忙しくなりました。生産はアップし、業績も向上しました。なかでも旭金属にとって画期的なことは、京都の精密科学機械メーカー(株) 島津製作所との取引がはじまったことです。
当時、島津製作所では、水晶発信の水晶片に付けるめっきに頭を痛めているということを社長が同級生懇談会の席で聞き出し、「それならば」とこの仕事に挑戦したのが端緒です。さっそく京大と協力し、純水によるめっきで見事に解決。晴れて島津製作所のお出入り(当時の納入業者の呼び方)となれたのです。
以来、今日に至るまで、島津製作所の認定工場としてさまざまな表面処理を受注、旭金属工業自体も技術的に大きく成長できたのです。
また、昭和31年には、鍍金加工の前後工程である機械加工や組立も、表面処理と同時に島津製作所から受注できるようになり、空いていた醤油蔵を改造し第二工場を建設、精密理化学機械の組立加工部門にも進出しました。この組立部門が発展し、昭和39年に旭金属精機 (株)として分離独立することになるのです。資本金を200万円に増資、従業員も36名に増員。旭金属工業が大きく前進する飛躍の時代であったのです。
●鉛メッキに成功
昭和33年頃のことです。関門トンネル内に設置する蛍光灯の笠の鉛めっきを、星和電機 (株)から受注したことがあります。国鉄から受注したのは東芝、松下、それに星和電機の3社。海水による腐蝕防止のための国鉄仕様が鉛めっきだったのです。当時の鉛めっきといえば鉛液にそのままドボンと付けて終りという、主に船関係の素材に使われた簡単なめっきが大半で、電気鉛めっきができる工場はほとんどありませんでした。わが社は以前に星和電機からの仕事で、旭化成 (株)延岡工場の蛍光灯で経験済みでした。別にあわてることなく星和電機の受注分は処理しましたが、困られたのは松下電器さん。東芝は東京で処理済み。松下さんだけが電気鉛めっきの外注先をもたず、納期は迫るし大困惑された様子。「いくら設備に費用がかかってもよいから」とのたっての頼みを引き受け、ベルトーロ(直流発電機)も増設し、昼夜大車輪。門前からトラックが直接現場へ向うという綱渡りでした。大いに感謝されたものです。
*- 創業時苦労アラカルト -
どんな仕事でも創業時に苦労はつきもの。旭金属工業でも同じことです。もともと醤油屋からの創業ですから、いろいろな部署で醤油屋の道具や知恵が使われました。たとえば、醤油樽の風呂などもそのひとつ。醤油圧搾槽がめっき槽にも使われ、大いに活躍したものですが、この醤油樽の風呂は傑作です。1日の労働を終えての醤油樽風呂は、さぞかし心地よいものであったでしょう。「え!とんでもない、臭くて寒くて…」ですって。「でも懐しい思い出だ」と古参社員は語ります。「残業の深夜、社長の奥さんから差し入れられる握り飯と味噌汁はほんとうにうまかったなあ…」とこれまた感慨ひとしおの様子。
旭金属工業株式会社 岐阜安八工場の基本情報
スポット名 | 旭金属工業株式会社 岐阜安八工場 |
---|---|
TEL | 0584-64-5061 |
住所 |
〒503-0125 岐阜県安八郡安八町牧4851-4 |
営業日 |
|
HP | http://www.akg.co.jp/index.htm |