フモンジ
普門寺
高野山 真言宗
寺院
- 仏教寺院
- エリア
- 愛知県豊橋市
- 最寄り駅
- JR東海道本線 新所原駅 北口から車で13分
普門寺の沿革
【普門寺ふもんじの開山かいざん】
当寺は、 奈良時代神亀4年(727)に行基によって開山されたと伝わっています。
天文3年(1534)成立の『普門寺縁起』には、次のような伝承が記されています。
関東に向かう途中で当山に登った行基が、この山の地景を奇特に感じ、寺院草創の志を抱き修行をしていたところ、観音様が姿を現して「山の形にちなんで山号は「船形山」、観音様にちなんで寺号は「普門寺」と名付けよ」とお告つげをされました。
行基はその観音様の姿を自ら彫、このお告つげの内容ないようを聖武天皇に報告したところ、堂塔建立が命じられて普門寺が開創されることになりました。
普門寺は天智天皇彫刻の五大明王を本尊とする「東谷」、観音様を本尊とする「西谷」からなり、聖武天皇は尊勝峯(神石山)と雨応峯(雨応山)から見渡みわたせる範囲はんいを寺領といいます。
豊橋市教育委員会によって平成16年(2004)から行われた学術調査によれば、裏山の船形山山腹にある「元々堂址」の本堂跡からは10世紀半の遺物が出土り、また本尊聖観音菩薩立像が11世紀、菩薩形立像が10~11世紀の彫刻であることが判明しており、普門寺の成立が古代に遡ることは確実視しされています。
============================================
【中世普門寺の中興】
『普門寺縁起』によれば、古代の普門寺は3000余の坊舎を抱えて繁栄しましたが、嘉応年中(1169~1171)に比叡山に攻められ焼失し、次いで養和年間(1181~1182)に源頼朝叔父の化積上人によって中興された、といいます。
今日残されている国指定重要文化財などからも、平安時代後期に普門寺が大きく生まれ変わったことは疑いのないことです。
久寿3年(1156)には僧勝意によって経塚が造営され、平治2年(1160)には高松院(二条天皇の后)より下賜された梵鐘が、地域の人ひとびとから奉納された銅を加わえて再鋳造されて奉納されました。
永暦2年(1161)には僧永意によって新しい普門寺の発起文ともいえる「起請」が定められました。
平安時代後期、普門寺は新しい村々を形成した地域住民によって、地域社会の自立と結集の拠点として再生されました。
鎌倉時代には山麓の雲谷、岩崎を中心に一部は遠江に及ぶ広大な寺領を有しており、とりわけ雲谷などは普門寺の「境内」とも認識されるなど、中世の普門寺は山麓の地域社会と密接な関係をもって存立していました。
一方、『普門寺縁起』では源頼朝公が平家追討の祈祷をして、頼朝公と等身大の不動明王像(現在は客殿に安置)を造ったとの記述があります。
平家滅亡後、頼朝公が上落する際には普門寺に立ち寄り多くの寺領を寄進され、寺門興隆三河七御堂の随一と言いわれたとの伝もあります。実際に当時の文献にも鎌倉幕府から厚保護を受けていたことを窺わせる記録もあります。
船形山山腹には200か所以上の人工の平坦地があり、多くの堂舎や坊院を抱えていたと考えられ、当時の隆盛を偲ばせます。
とくに大きな平坦地である「元々堂址」「元堂址」はともに平安時代後期に大がかりな整備が行われ、現在も本堂跡の基壇が残されています。
それぞれかつての普門寺を構成した船形寺(西谷、本尊聖観音菩薩)と梧桐岡院(東谷、本尊五大明王)に相当すると考えられています。
============================================
【戦国・江戸時代の普門寺】
このように隆盛を誇った普門寺でしたが、戦国時代になると、今川氏や戸田氏、牧野氏ら近隣の武士の争いに巻き込まれ、永正14年(1517)には裏山に築かれた船形山城をめぐって今川氏と戸田氏が争っています。(船形山合戦)。
そして天文2年(1533)には兵火のため全山がことごとく焼失してしまったといいます。
しかし戦国時代から江戸時代前期にかけて、かつての隆盛をとり戻すべく復興が行われました。
1540年ころには、普門寺復興と地域社会の再結集を祈念して、船形山合戦などの一連の戦乱の戦死者を含む大規模な共同供養(三界万霊供養)が行われています。
東三河・西遠江の広い範囲の地域から奉加者・供養者が集まり地域社会の結集拠点して普門寺の再生が目指されました。
その後も今川氏や徳川家康、池田照政(輝政)など代々の領主の保護を受け、少しずつ復興が進められました。
慶長8年(1603)には再中興の住持・龍祐のときに寺領朱印地100石が徳川家康より与えられています。
そして17世紀後半の住持日誉・昶深のときに、仁王門、本堂など大規模な造営も行われて、ようやく今日につながる基本的な寺観が整えられるに至ります。
以来、観音霊場、源頼朝公所縁の地として、また江戸時代には桜名所として、多くの参詣客を集め、厚く信仰されてきました。
============================================
【普門寺の将来】
二度にわって大きな火災に遭ったにもかかわらず、普門寺には仏像、工芸品、古文書など貴重な文化財が多く伝えられ、船形山の旧境内遺跡と合わせて、中世山寺の代表的な遺跡の一つとして学術的にも注目を集めています。
今日、紅葉の名所として知られる普門寺では、こうした豊かな歴史文化と自然環境を継承し、観音霊場としての信仰を守りながら、地域文化の拠点として新たな一歩を踏出しています。
*この沿革は、 豊橋市教育委員会によって平成16年(2004)~平成28年(2016)にわたり普門寺を総合的に調査して頂いた成果を基にして新たに書きました。
当寺は、 奈良時代神亀4年(727)に行基によって開山されたと伝わっています。
天文3年(1534)成立の『普門寺縁起』には、次のような伝承が記されています。
関東に向かう途中で当山に登った行基が、この山の地景を奇特に感じ、寺院草創の志を抱き修行をしていたところ、観音様が姿を現して「山の形にちなんで山号は「船形山」、観音様にちなんで寺号は「普門寺」と名付けよ」とお告つげをされました。
行基はその観音様の姿を自ら彫、このお告つげの内容ないようを聖武天皇に報告したところ、堂塔建立が命じられて普門寺が開創されることになりました。
普門寺は天智天皇彫刻の五大明王を本尊とする「東谷」、観音様を本尊とする「西谷」からなり、聖武天皇は尊勝峯(神石山)と雨応峯(雨応山)から見渡みわたせる範囲はんいを寺領といいます。
豊橋市教育委員会によって平成16年(2004)から行われた学術調査によれば、裏山の船形山山腹にある「元々堂址」の本堂跡からは10世紀半の遺物が出土り、また本尊聖観音菩薩立像が11世紀、菩薩形立像が10~11世紀の彫刻であることが判明しており、普門寺の成立が古代に遡ることは確実視しされています。
============================================
【中世普門寺の中興】
『普門寺縁起』によれば、古代の普門寺は3000余の坊舎を抱えて繁栄しましたが、嘉応年中(1169~1171)に比叡山に攻められ焼失し、次いで養和年間(1181~1182)に源頼朝叔父の化積上人によって中興された、といいます。
今日残されている国指定重要文化財などからも、平安時代後期に普門寺が大きく生まれ変わったことは疑いのないことです。
久寿3年(1156)には僧勝意によって経塚が造営され、平治2年(1160)には高松院(二条天皇の后)より下賜された梵鐘が、地域の人ひとびとから奉納された銅を加わえて再鋳造されて奉納されました。
永暦2年(1161)には僧永意によって新しい普門寺の発起文ともいえる「起請」が定められました。
平安時代後期、普門寺は新しい村々を形成した地域住民によって、地域社会の自立と結集の拠点として再生されました。
鎌倉時代には山麓の雲谷、岩崎を中心に一部は遠江に及ぶ広大な寺領を有しており、とりわけ雲谷などは普門寺の「境内」とも認識されるなど、中世の普門寺は山麓の地域社会と密接な関係をもって存立していました。
一方、『普門寺縁起』では源頼朝公が平家追討の祈祷をして、頼朝公と等身大の不動明王像(現在は客殿に安置)を造ったとの記述があります。
平家滅亡後、頼朝公が上落する際には普門寺に立ち寄り多くの寺領を寄進され、寺門興隆三河七御堂の随一と言いわれたとの伝もあります。実際に当時の文献にも鎌倉幕府から厚保護を受けていたことを窺わせる記録もあります。
船形山山腹には200か所以上の人工の平坦地があり、多くの堂舎や坊院を抱えていたと考えられ、当時の隆盛を偲ばせます。
とくに大きな平坦地である「元々堂址」「元堂址」はともに平安時代後期に大がかりな整備が行われ、現在も本堂跡の基壇が残されています。
それぞれかつての普門寺を構成した船形寺(西谷、本尊聖観音菩薩)と梧桐岡院(東谷、本尊五大明王)に相当すると考えられています。
============================================
【戦国・江戸時代の普門寺】
このように隆盛を誇った普門寺でしたが、戦国時代になると、今川氏や戸田氏、牧野氏ら近隣の武士の争いに巻き込まれ、永正14年(1517)には裏山に築かれた船形山城をめぐって今川氏と戸田氏が争っています。(船形山合戦)。
そして天文2年(1533)には兵火のため全山がことごとく焼失してしまったといいます。
しかし戦国時代から江戸時代前期にかけて、かつての隆盛をとり戻すべく復興が行われました。
1540年ころには、普門寺復興と地域社会の再結集を祈念して、船形山合戦などの一連の戦乱の戦死者を含む大規模な共同供養(三界万霊供養)が行われています。
東三河・西遠江の広い範囲の地域から奉加者・供養者が集まり地域社会の結集拠点して普門寺の再生が目指されました。
その後も今川氏や徳川家康、池田照政(輝政)など代々の領主の保護を受け、少しずつ復興が進められました。
慶長8年(1603)には再中興の住持・龍祐のときに寺領朱印地100石が徳川家康より与えられています。
そして17世紀後半の住持日誉・昶深のときに、仁王門、本堂など大規模な造営も行われて、ようやく今日につながる基本的な寺観が整えられるに至ります。
以来、観音霊場、源頼朝公所縁の地として、また江戸時代には桜名所として、多くの参詣客を集め、厚く信仰されてきました。
============================================
【普門寺の将来】
二度にわって大きな火災に遭ったにもかかわらず、普門寺には仏像、工芸品、古文書など貴重な文化財が多く伝えられ、船形山の旧境内遺跡と合わせて、中世山寺の代表的な遺跡の一つとして学術的にも注目を集めています。
今日、紅葉の名所として知られる普門寺では、こうした豊かな歴史文化と自然環境を継承し、観音霊場としての信仰を守りながら、地域文化の拠点として新たな一歩を踏出しています。
*この沿革は、 豊橋市教育委員会によって平成16年(2004)~平成28年(2016)にわたり普門寺を総合的に調査して頂いた成果を基にして新たに書きました。
阿字観とは?
密教瞑想法とも呼ばれ弘法大師さまが、僧侶育成の為に考えられ弟子の実慧さんに伝えたのが始まりだと伝わっています。
本来、僧侶の為の瞑想法であった為、一般の方々には、あまり知られてはいませんでしたが、近年になって徐々に認知されるようになってきました。
阿字観は、お軸の前に座って行います。その軸には、夜空に浮かぶ満月の中に蓮花台と、「阿」と読む梵字(古代インドの文字)が描かれています。
この「阿」は、真言密教における中心の仏様、大日如来を表します。
阿字観は、じっと静かに座って行うものではなく、始めから終わりまで、指導者の説明に耳を傾けながら行います。瞑想だからと言って肩ひじ張らず、気軽に行うことが出来ます。
座り方も結跏趺坐や半跏坐のような坐法、あぐら・正座・イスに腰掛けるというように自分の体に合った姿勢で行えます。
当寺 副住職と一緒に、真言宗の瞑想法である阿字観を通して、現代人の疲れた心を落ち着かせ、自分自身を見つめ直す時間を一緒に作りましょう!
/////////////////////////// 阿 字 観 教 室 の お 知 ら せ ! /////////////////////////////
とよはし中日文化センター、豊田中日文化センターにて「阿字観に学ぶ」という講座名で当寺 副住職林義将が講師として講座が開講されています。
*日程、会費等は中日文化センターホームページをご覧ください。
*体験の申し込みは中日文化センターへお問い合わせください。イスに腰掛けた状態での受講も可能です。
◇とよはし中日文化センター
受講日:第3水曜日 19時から20時30分
問い合わせ:0120-17-1484
http://www.chunichi-culture.com/center/toyohashi/index.html
豊橋市向山町三ッ塚30-2 向山フォレスタUNO2階
◇豊田中日文化センター
受講日:第3金曜日 19時~20時30分
問い合わせ:0120-98-2841
http://www.chunichi-culture.com/toyota/index.html
豊田市小坂本町1-25 豊田産業文化センター5階
本来、僧侶の為の瞑想法であった為、一般の方々には、あまり知られてはいませんでしたが、近年になって徐々に認知されるようになってきました。
阿字観は、お軸の前に座って行います。その軸には、夜空に浮かぶ満月の中に蓮花台と、「阿」と読む梵字(古代インドの文字)が描かれています。
この「阿」は、真言密教における中心の仏様、大日如来を表します。
阿字観は、じっと静かに座って行うものではなく、始めから終わりまで、指導者の説明に耳を傾けながら行います。瞑想だからと言って肩ひじ張らず、気軽に行うことが出来ます。
座り方も結跏趺坐や半跏坐のような坐法、あぐら・正座・イスに腰掛けるというように自分の体に合った姿勢で行えます。
当寺 副住職と一緒に、真言宗の瞑想法である阿字観を通して、現代人の疲れた心を落ち着かせ、自分自身を見つめ直す時間を一緒に作りましょう!
/////////////////////////// 阿 字 観 教 室 の お 知 ら せ ! /////////////////////////////
とよはし中日文化センター、豊田中日文化センターにて「阿字観に学ぶ」という講座名で当寺 副住職林義将が講師として講座が開講されています。
*日程、会費等は中日文化センターホームページをご覧ください。
*体験の申し込みは中日文化センターへお問い合わせください。イスに腰掛けた状態での受講も可能です。
◇とよはし中日文化センター
受講日:第3水曜日 19時から20時30分
問い合わせ:0120-17-1484
http://www.chunichi-culture.com/center/toyohashi/index.html
豊橋市向山町三ッ塚30-2 向山フォレスタUNO2階
◇豊田中日文化センター
受講日:第3金曜日 19時~20時30分
問い合わせ:0120-98-2841
http://www.chunichi-culture.com/toyota/index.html
豊田市小坂本町1-25 豊田産業文化センター5階
永代供養・葬儀
普門寺は1300年前に開山され、源頼朝公や徳川幕府からも保護を受け、地域社会の結集の場、信仰の場としてその歴史を継いでいます。豊かな自然も残る豊橋の紅葉スポットとして知られるお寺です。
宗教とは「安心(あんじん)を得ること」を前提に、永代供養の施設を発願しました。
◎普門寺の永代供養について
・過去帳位牌に記載し、当寺にて供養を行います。
今後の先祖供養をすべてお寺に任せなければならないと言うことではありません。
お寺でも供養を致しますが、ご家族での供養はできる限り続けられることが望ましいです。
・現在の宗旨宗派は問いません。納骨後は、当寺の宗旨によって供養を行います。
・永代供養の生前予約、受付しています。
・お葬儀は、別費用にて勤めさせて頂きます。ご相談ください。
・個別の年会忌を希望される方は、檀家(護持会員)としてお付き合いください。
普門寺の永代供養には、当寺に残る豊かな歴史と自然環境に魅力を感じ愛知県東三河地域の豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市だけでなく西三河地域の岡崎市、豊田市、西尾市や静岡県浜松市、湖西市などからもお申し込みを頂いています。
宗教とは「安心(あんじん)を得ること」を前提に、永代供養の施設を発願しました。
◎普門寺の永代供養について
・過去帳位牌に記載し、当寺にて供養を行います。
今後の先祖供養をすべてお寺に任せなければならないと言うことではありません。
お寺でも供養を致しますが、ご家族での供養はできる限り続けられることが望ましいです。
・現在の宗旨宗派は問いません。納骨後は、当寺の宗旨によって供養を行います。
・永代供養の生前予約、受付しています。
・お葬儀は、別費用にて勤めさせて頂きます。ご相談ください。
・個別の年会忌を希望される方は、檀家(護持会員)としてお付き合いください。
普門寺の永代供養には、当寺に残る豊かな歴史と自然環境に魅力を感じ愛知県東三河地域の豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市だけでなく西三河地域の岡崎市、豊田市、西尾市や静岡県浜松市、湖西市などからもお申し込みを頂いています。
普門寺の基本情報
スポット名 | 普門寺 |
---|---|
TEL | 0532-41-4500 |
FAX | 0532-41-4500 |
住所 |
〒441-3104 愛知県豊橋市雲谷町ナベ山下7 |
営業日 |
|
HP | http://www.sunalix.co.jp/fumon/ |
駐車場 | あり 70台 |