アソジンジャ
阿蘇神社
厄除けの神
神社
- 神社
- エリア
- 長崎県諫早市
- 最寄り駅
- JR長崎本線 喜々津駅 から徒歩6分
~由緒と御神徳~
御祭神 健磐龍命(タケイワタツノミコト)
神武天皇の皇孫子、神八耳命の皇子
御祭神 健磐龍命は文武兼備の神として名高く、神武天皇の勅命を受け阿蘇を開発し九州を治められた神であります。
草部吉見神の娘、阿蘇都媛を娶り、二人は当時火を噴く阿蘇一帯の開拓を決意されました。
阿蘇の湖水の水を切り、住民に農耕の道を教え、畜産・植林を奨励するなど偉大な御事跡が伝えられております。
当社は天文3年甲午(西暦1534年)仲秋9月、当時喜々津を管領していた諫早領主 西郷石見守が熊本の阿蘇一ノ宮の御本社より御分霊を勧請し喜々津村の総鎮守として奉斎されました。
爾来武将は国土守護の軍神として、また農民は農耕の守護神として篤い崇敬を寄せました。
また医道への御神徳も顕著であり、特に鯰病には霊験があらたかであります。
現在では開運招福・厄除けの神として町内外より多くの参拝者があります。
神武天皇の皇孫子、神八耳命の皇子
御祭神 健磐龍命は文武兼備の神として名高く、神武天皇の勅命を受け阿蘇を開発し九州を治められた神であります。
草部吉見神の娘、阿蘇都媛を娶り、二人は当時火を噴く阿蘇一帯の開拓を決意されました。
阿蘇の湖水の水を切り、住民に農耕の道を教え、畜産・植林を奨励するなど偉大な御事跡が伝えられております。
当社は天文3年甲午(西暦1534年)仲秋9月、当時喜々津を管領していた諫早領主 西郷石見守が熊本の阿蘇一ノ宮の御本社より御分霊を勧請し喜々津村の総鎮守として奉斎されました。
爾来武将は国土守護の軍神として、また農民は農耕の守護神として篤い崇敬を寄せました。
また医道への御神徳も顕著であり、特に鯰病には霊験があらたかであります。
現在では開運招福・厄除けの神として町内外より多くの参拝者があります。
- 阿蘇大明神の話 -
むかし天照大神の孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、日本の国を治めるために日向の高千穂の峯におくだりになりました。
そして瓊瓊杵尊から三代目の神武天皇が宮崎の港から舟出して大和の国(奈良県)で日本の国をはじめてお治めになりました。
神武天皇は、孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)に九州の地を治めるよう命じました。
阿蘇を開発した神として阿蘇神社の主神で阿蘇大明神ともいいます。
健磐龍命は山城の国宇治郷(京都府宇治市)から瀬戸内海を渡り、宮崎の港に着き、宮崎で祖父に当たる神武天皇が住まわれた跡に、神武天皇の神霊(みたま)を祀られました。
現在の宮崎神宮がその社で、宮崎神宮の古い記録に健磐龍命のことが書かれています。
健磐龍命は九州を治めるには九州の中央部に行く必要があると考えました。
海岸を北に進み、延岡から五箇瀬川(ごかせがわ)をさかのぼり、高千穂そして草部(くさかべ)(阿蘇郡高森町)に着きました。
ここには伯父にあたる草部吉見神(くさかべよしみのかみ)が居られ、たいへん喜んで健磐龍命を迎えました。
ここで吉見神の娘、阿蘇都媛(あそつひめ)と結婚します。
二人は火を噴く山、阿蘇一帯に新天地を求めて進みます。
その頃の阿蘇は阿蘇谷、南郷谷(なんごうだに)とも広々と水をたたえた大きな湖でした。
この湖の水を流し出して開拓しようと一大決心をしました。
先ず二重(ふたえ)の峠のところを蹴破ろうとしましたが、二重になっていて壊れませんでした。
そこで立野(たての)(阿蘇郡長陽村立野)のスガルのところを蹴りますと、山は音を立てて崩れ湖の水はどっと流れ出ました。
スガルとはスキマガアルを縮めた名前とも、『すっかり』 と穴が開いたからともいわれています。
また、蹴破った時の土くれが飛んできたのが、熊本市の小山戸島(おやまとしま)であり、菊陽町の津久礼(ツチクレ)であるともいわれます。
数鹿流が滝(すがるがたき)は下野(しもの)の狩りで追いつめられた鹿が数匹流されたので名付けられました。
健磐龍命は水がなくなった阿蘇谷と南郷谷を開拓し、作物をつくり豊かな土地にしました。
健磐龍命のお墓は阿蘇神社の桜門の東にある『一の神陵』で、阿蘇都媛のお墓は『二の神陵』といわれています。
『阿蘇の神話と伝説』 (宮川進編)より
そして瓊瓊杵尊から三代目の神武天皇が宮崎の港から舟出して大和の国(奈良県)で日本の国をはじめてお治めになりました。
神武天皇は、孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)に九州の地を治めるよう命じました。
阿蘇を開発した神として阿蘇神社の主神で阿蘇大明神ともいいます。
健磐龍命は山城の国宇治郷(京都府宇治市)から瀬戸内海を渡り、宮崎の港に着き、宮崎で祖父に当たる神武天皇が住まわれた跡に、神武天皇の神霊(みたま)を祀られました。
現在の宮崎神宮がその社で、宮崎神宮の古い記録に健磐龍命のことが書かれています。
健磐龍命は九州を治めるには九州の中央部に行く必要があると考えました。
海岸を北に進み、延岡から五箇瀬川(ごかせがわ)をさかのぼり、高千穂そして草部(くさかべ)(阿蘇郡高森町)に着きました。
ここには伯父にあたる草部吉見神(くさかべよしみのかみ)が居られ、たいへん喜んで健磐龍命を迎えました。
ここで吉見神の娘、阿蘇都媛(あそつひめ)と結婚します。
二人は火を噴く山、阿蘇一帯に新天地を求めて進みます。
その頃の阿蘇は阿蘇谷、南郷谷(なんごうだに)とも広々と水をたたえた大きな湖でした。
この湖の水を流し出して開拓しようと一大決心をしました。
先ず二重(ふたえ)の峠のところを蹴破ろうとしましたが、二重になっていて壊れませんでした。
そこで立野(たての)(阿蘇郡長陽村立野)のスガルのところを蹴りますと、山は音を立てて崩れ湖の水はどっと流れ出ました。
スガルとはスキマガアルを縮めた名前とも、『すっかり』 と穴が開いたからともいわれています。
また、蹴破った時の土くれが飛んできたのが、熊本市の小山戸島(おやまとしま)であり、菊陽町の津久礼(ツチクレ)であるともいわれます。
数鹿流が滝(すがるがたき)は下野(しもの)の狩りで追いつめられた鹿が数匹流されたので名付けられました。
健磐龍命は水がなくなった阿蘇谷と南郷谷を開拓し、作物をつくり豊かな土地にしました。
健磐龍命のお墓は阿蘇神社の桜門の東にある『一の神陵』で、阿蘇都媛のお墓は『二の神陵』といわれています。
『阿蘇の神話と伝説』 (宮川進編)より
阿蘇神社の基本情報
スポット名 | 阿蘇神社 |
---|---|
TEL | 0957-43-5235 |
FAX | 0957-43-2183 |
住所 |
〒859-0401 長崎県諫早市多良見町化屋862 |
営業日 |
|
HP | http://asojinja.jp/ |
駐車場 | あり |