ツユテンジンシャ
露天神社
大阪メトロ東梅田駅、近松門左衛門「曽根崎心中」ゆかりの地。露 天神社(通称:お初天神)
神社
- 神社
- エリア
- 大阪府大阪市北区
- 最寄り駅
- 大阪メトロ谷町線 東梅田駅 改札口から徒歩2分
近松門左衛門「曽根崎心中」ゆかりの地。
誰が告ぐるとは曽根崎の杜の下風音に聞え。
取伝へ貴踐群集の回向の種。未来成仏疑ひなき恋の。手本となりにけり。
―――――― 近松門左衛門作「曽根崎心中」より
取伝へ貴踐群集の回向の種。未来成仏疑ひなき恋の。手本となりにけり。
―――――― 近松門左衛門作「曽根崎心中」より
神社について
◎ 由緒 ◎
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創建以来一千三百年の歴史を持つ古社で、「難波八十島祭(なにわやそしままつり)」旧跡の一社である。
曽根崎・梅田地域の総鎮守として現在も崇敬を集める。
社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」(注1)旧跡の一社である。
曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。
なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。
南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。
この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。
以後、明治7年(1894年)の初代大阪駅、明治38年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。
◎ 社名の起こり ◎
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菅公が当地で詠まれた御歌
「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に因る。
昌泰4年(901年)2月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊まりされた折に、当社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣の道すがら、当地で、上の歌を詠ぜられた。
この故事にちなみ、露 天神社と称すると伝えられている。(『摂津名所図会』に記載の説)
なお管公は、元和8年(1622年)3月に、二郎左衛門九世の孫・渡辺新兵衛源尋が、大阪夏の陣の兵火で焼失した当社社殿を再建するとき、その御霊代として後陽成天皇より御神名御宸筆を賜り相殿に合祀された。
◎ 社殿・境内 ◎
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在の社殿は、旧社殿が昭和20年6月に太平洋戦争で焼失したため、昭和32年9月20日に造営竣工したものである。
昭和52年10月20日には管公御神忌1075年祭並びに、社殿復興20周年記念事業として、境内各所の修復、透塀・玉垣の新設を、平成5年には社務所・参集殿・正門・鳥居などを造営した。
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創建以来一千三百年の歴史を持つ古社で、「難波八十島祭(なにわやそしままつり)」旧跡の一社である。
曽根崎・梅田地域の総鎮守として現在も崇敬を集める。
社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」(注1)旧跡の一社である。
曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。
なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。
南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。
この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。
以後、明治7年(1894年)の初代大阪駅、明治38年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。
◎ 社名の起こり ◎
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菅公が当地で詠まれた御歌
「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に因る。
昌泰4年(901年)2月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊まりされた折に、当社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣の道すがら、当地で、上の歌を詠ぜられた。
この故事にちなみ、露 天神社と称すると伝えられている。(『摂津名所図会』に記載の説)
なお管公は、元和8年(1622年)3月に、二郎左衛門九世の孫・渡辺新兵衛源尋が、大阪夏の陣の兵火で焼失した当社社殿を再建するとき、その御霊代として後陽成天皇より御神名御宸筆を賜り相殿に合祀された。
◎ 社殿・境内 ◎
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在の社殿は、旧社殿が昭和20年6月に太平洋戦争で焼失したため、昭和32年9月20日に造営竣工したものである。
昭和52年10月20日には管公御神忌1075年祭並びに、社殿復興20周年記念事業として、境内各所の修復、透塀・玉垣の新設を、平成5年には社務所・参集殿・正門・鳥居などを造営した。
露天神社の基本情報
スポット名 | 露天神社 |
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TEL | 06-6311-0895 |
住所 |
〒530-0057 大阪府大阪市北区曽根崎2-5-4 |
営業日 |
|
HP | http://www.tuyutenjin.com/ |
駐車場 | なし |